広島大仏 - Wikipedia

広島大仏(ひろしまだいぶつ)は、原子爆弾投下後の広島市において原爆犠牲者・戦争犠牲者を弔うために安置されたものの10年後に行方不明となり、半世紀後に奈良県で再発見された大仏である。

広島大仏 おりづるタワーでの展示(2022年)

特徴[編集]

全高約4メートル[1][注釈 1]、膝幅八尺[2][3][4][5][6][7]、顔幅四尺[2][3]、顔の長さ四尺[4][7]の、定印を結んだ[8]全身に金箔を施した木製阿弥陀如来坐像[1][9]。重量は約400キログラム[10][注釈 2]。一本の五葉松から彫刻し、仕上げたものと言われ[3][4]、頭、胴、脚部の3つに分解することが可能である[7][11]

来歴[編集]

明治時代まで[編集]

1201年建仁元年)、出羽国山形県最上郡新庄山城の城主であった戸沢経義の祈願[注釈 3]により、仏師安阿弥が制作した[2][3][4][7][10][11][12]。その後は新庄市の福昌寺に安置された[3][4][11][12]1869年明治2年)に、福昌寺が越後国新潟県)へ移転し、この大仏像は新庄に取り残された[3][11]。折からの廃仏毀釈から逃れるために頭部と胴体に分けて保管され、素封家の今泉氏が譲りうけた[3]。その後、頭部は持ち出されて東京都麻布区飯倉三丁目に保安され、胴体は山形県山形市横町(現在の本町)に秘匿された[3][4][11]

三段峡へ移設[編集]

西善寺に安置されている三段峡大仏(山県郡写真帳 p.27より)

1925年大正14年)に、広島県に住む仏教行者後藤栄三郎[注釈 4]が像の所在を知り、これを譲り受け、頭部と胴を元の一体にした[3][4][11]。 大正中頃より、三段峡が名勝として知られるようになり、観光客も年々増加した[11]。大正14年、三段峡を世に紹介した熊南峰が、この大仏を移設して三段峡の守り本尊として祀ろうと提案し、樽床集落の長老、後藤吾妻[注釈 5]がそれに賛同、樽床集落の総会で決議を採ったが、費用が掛かることなどから住民の賛同は少なかった[11]。何としても設置にこぎ着けたかった後藤吾妻は説得を続け、12名の賛同者を得た[11]。この13名で像を購入し、費用の2千円は広島の金貸し業者から借用した[11]。購入した大仏は一旦饒津神社そばの三樹園[注釈 6]に仮殿を設けて安置し[4][11]、その後、山県郡戸河内町柴木(しわぎ)まで移動させ、西善寺に仮安置した[2][11][注釈 7]1926年(大正15年)に樽床集落まで持ち帰るが、道路の整備状況も悪く、トラックによる運送もまだ無かったため、大仏像を三つに分解して箱に入れ、馬車3台に乗せて、同乗者が箱に綱をつけて箱が傾くのを守りながら苦心して運び上げ、院居[注釈 8]に安置した[11]。大正15年9月24日から26日までの三日間、大仏安置記念として当時設立後間もない浄土真宗系の新興宗教、「光明団」教祖の住岡狂風(夜晃)、釜瀬紫線を招き、仏教講演会を行った[11]。この三日間で合計283名が参拝している[11]。『山県郡巡り道中記』では「樽床の大佛さん」、『山県郡写真帳』、『樽床誌』では「三段峡大仏」と称されている[2][3][11]。大仏殿は、三段峡の三ツ滝の上流(現在の芸北民俗博物館の位置)に建設する予定であったが、第二次世界大戦の勃発により建設は行われず、終戦後まで院居の裏山に仮安置されていた[4][7][11]

原爆犠牲者供養大仏[編集]

広島市舟入の唯信寺に置かれた広島大仏(『中国新聞』1949年9月30日朝刊掲載)

大仏像の最初の持ち主、後藤栄三郎が死去したときに、一切を託された大柿町(現在の江田島市)の那須義憲が、広島市舟入川口町唯信寺住職大内義直と協力して「広島の原爆犠牲者、海外での戦死者その他あらゆる戦争犠牲者」を弔う「広島供養塔」の本尊として三段峡大仏を祀りたいと三段峡名勝保存会に要望した[4][9][11]。那須は後藤吾妻にこれまでの保管料として15万円を支払い、像を譲り受けた[4][9][11]1949年昭和24年)9月27日に三段峡から唯信寺に輸送費15万円をかけて移送され、「広島大仏」(廣島大佛)と奉安会によって命名された[4][5][6][7][9]。大内義直の構想では、大仏殿を建立するための募金を行い、法隆寺夢殿に似た形の大仏殿の中央に大仏を安置し、周囲に原爆死没者などの位牌を置く計画であった[4]

大仏の所有者となった那須のもとには、これからこの大仏がもたらす利益を嗅ぎつけた利権屋が押しかけ、中には「大仏に貼られた金箔は8貫目(約30キログラム)もあるだろうからこれだけでも利益になる」と提案する者までいた[9]。そうした騒ぎに嫌気がさした那須は、1950年(昭和25年)4月に大柿町にある自宅まで大仏を運んだ[9]。しかし、個人での維持には限界があり、借金に苦しむようになった[9]。広島市の一大繁華街である広島本通商店街の商店で構成される、「本通り会」会員である佐部佐一郎などが那須の窮状を聞き、この大仏像を爆心地至近である原爆ドームに隣接する西蓮寺で祀り、原爆犠牲者を供養し、近隣である本通りにも集客することを考えた[7][9][14]。昭和25年7月に本通り会の有志10名で「大仏奉賛会」が結成され、本通り会会長の中山良一が奉賛会の会長に、副会長に佐部佐一郎が就いた[7][9]。那須と奉賛会の話し合いの過程で、大仏を持て余していた那須は「無条件で像を奉賛会に引き渡す」と同意し、奉賛会はそれに対し那須を奉賛会の名誉会長とし、また、彼がこれまでに支払った運搬費や維持費に対して倍の40万円を謝礼として支払った[7][9]。この時に、「仏様を売り買いするのは恐れ多い」と売買契約を結ばなかった[9]

本通りを進む広島大仏遷座祭(『アサヒグラフ』1950年8月30日号 p.11より)

昭和25年8月4日には広島大仏の遷座祭が行われ、ホラ貝隊を先頭に約400人の稚児行列、詠歌隊などに守られて、大仏は安佐郡戸山村からやってきた名牛5頭に牽かれた花車に乗せられ、舟入川口町の唯信寺を午後4時に出発した[5][6]。行列は、舟入 - 十日市 - 紙屋町と電車通り沿いに進み、八丁堀に午後6時に到着、休憩後に金座街本通りと西進し、午後7時に西蓮寺境内の仮供養殿に到着した[5][6]。遷座祭の様子は『真夏の太陽に金色の肌を輝かせながら、七百年前の作という大佛は古式豊かな行列を作り、都心に仏教絵巻をくりひろげた』(『中国新聞』1950年8月5日朝刊)[6]と紹介されている。翌日の8月6日には慰霊祭も行われた[9]

西蓮寺に安置されている広島大仏(絵葉書)
映画「原爆の子」原爆ドーム右側に大仏殿が写っている

原爆ドーム横に安置された大仏は、広島の復興の様子を写した写真絵葉書でも紹介され、観光バスのバスガイドの説明にも登場し、観光客も大勢訪れるようになった[9][15]大宮智栄善光寺第119世尼公上人も法要を行うなど、名声も高まっていった[9]。原爆投下から10年目に当たる1955年8月6日には、仏教系の各派合同、30人以上の僧侶が慰霊法要を行った[9]

盗難そして行方不明[編集]

1954年ごろから、那須、および那須の代理人を名乗る男性が共同で、「大仏は売買契約を結んでおらず、そのため大仏奉賛会に売却したわけでもなく、所有権は那須にある」と主張を始めた[7][9]。1955年2月には奉賛会に対し大仏の返還交渉を始めたが、その時の両者の主張は以下のものである[9]

《行事について》

那須の主張
大仏奉賛会の名誉会長であるのに、行事についてのお知らせが通知されない。
奉賛会の反論
行事のお知らせを通知しても参加しなかったため、そのうちに通知を怠るようになった。

《那須の債務について》

那須の主張
大仏に関係する債務がまだ58万円あり、奉賛会からの返済は浄財が集まり次第払う約束がいまだに履行されない。
奉賛会の反論
那須が大仏の維持に使用した金額は20万円で、奉賛会は倍の40万円を既に支払っている。にも関わらず、更に58万円を要求する根拠が無い。

《大仏の管理について》

那須の主張
大仏の管理を名誉会長の私にさせてくれない。
奉賛会の反論
那須には、「会長となって一切の運営を取り仕切ってもかまわない」と度々言っている。

《大仏殿について》

那須の主張
本格的な大仏殿が建設されない。
奉賛会の反論
復興の都市計画の策定もあり)本格的な大仏殿を建設する土地が決まらないことから寄付も集まりにくい。しかし、当初から建設する方針である。


対立により交渉が決裂することを恐れた奉賛会は譲歩案として「支払った40万円を返還するなら大仏を渡してもよい」と提案した[9]

原爆投下10年の慰霊法要が行われた直後の1955年8月11日正午ごろ、西蓮寺境内にトラックが侵入し、10人以上の作業員が大仏を頭、胴、腰の三つに分解してトラックに積み込み、住職の制止も振り切って持ち去った[7][9]。大仏奉賛会副会長の佐部は警察に盗難を届け出たが、所有権問題から起きた民事事件であると判断された[7][9]。西蓮寺住職の証言から大仏持去りに使用されたトラックの所有者も判明し、作業員に事情を聴くと「大仏を那須氏に運ぶよう頼まれ、五日市町(現在は広島市佐伯区)の光禅寺[注釈 9]に運んだ」と大仏の行先も判明した[7][9]。那須は、光禅寺の住職に対して、「大仏殿が立ち退きになるからしばらく預かってほしい」と説明していた[7]。大仏盗難については民事と判断されたが、警察は那須に寺院への建造物不法侵入容疑で事情聴取を行った[9]。那須は「今回のように強硬策に出ることで、地元の名士などが関心を持ち、正式な大仏殿の建設が早まると考えた」と供述した[9]。盗難からしばらくの間、西蓮寺の住職は、観光客に対してガイドが空っぽの大仏殿を前に説明を始めようとするのをこっそり止めなければならず、そのうち観光バスも寺を素通りするようになった[7][9]

1960年ごろには光禅寺からも所在不明になった[1][注釈 10]

再発見後[編集]

奈良県生駒郡安堵町に所在する極楽寺の田中全義住職は、彼の祖父が、知り合いだった古物商から譲り受けて2004年頃から寺に安置していた大仏が、「ヒロシマの記録」(中国新聞社発行)に掲載されている「広島大仏」に似ていることに2011年に気が付いた[1]奈良国立博物館の専門家による調査で、顔の特徴などから同一の仏像であるとお墨付きをもらった[1]。それ以来、8月6日には極楽寺において原爆犠牲者供養の法要を行っていた[16]。2015年には、広島への里帰り「出開帳」の企画が始動した[17]。2020年10月に「里帰り」を実施予定だった[18]が実施されなかった[注釈 11]。2022年4月に広島の地元企業広島マツダなどを中心としたグループが、2022年7月に「里帰り」する計画を企画[19]クラウドファンディングで輸送費などの費用を賄う計画で、制作年にちなみ、1201万円を目標としていた[19]。結果、1250万円の資金が集まり、2022年7月1日から9月1日まで原爆ドーム隣に所在するおりづるタワーで公開することが決まった[10]。大仏像は頭・胴・腰に分解できるが、分解してもエレベーターに入らない大きさであるため、公開前日の6月30日深夜、分解したうえで台車に乗せて約5時間かけて狭いスロープを12階まで人力で運んだ[10]。7月1日の公開初日には「開眼法要」が行われ、極楽寺の田中住職など、6宗派24人の僧侶が集まり、読経を行った[10][20]。爆心地から2.6キロの地点で被爆したピアノの演奏も行われた[10][20]。8月6日にも慰霊法要を行い、9月10日には本通りを花車に乗せて練り歩き、「広島大仏遷座祭」を再現する予定[10]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 尺貫法で表すと一丈三尺。『山県郡巡り道中記』、『アサヒグラフ』1950年8月30日号、『サンデー毎日』1955年8月28日号では一丈三尺と紹介。『山県郡写真帳』では一丈と紹介。『樽床誌』では約八メートルとあるが、『山県郡巡り道中記』に「蓮台や後光も加えると二丈餘におよぶ」とあるためこれは像だけではなく付属物も合わせた高さである。『中国新聞』1949年9月30日、1950年8月3日、5日、1955年8月12日の各記事では一丈三寸と紹介されているが、尺を寸と誤字している可能性がある。
  2. ^ 中国新聞 1950年8月5日では、「約1トン」と表記されている。
  3. ^ 『山県郡巡り道中記』、『樽床誌』など、戸沢経義の娘が祈願したとするものもある。
  4. ^ 後藤吾妻とは無関係と思われる。
  5. ^ 旅館業を経営し[9]、複数回の八幡村議会議員経験者。明治13年生、昭和42年没[13]
  6. ^ 『樽床誌』では三寿園となっているが誤字である。築田多吉の会社「築田三樹園社」との関連は不明だが、「広島県立文書館データベースシステム」で「三樹園」と検索すると、 「広島市饒津三樹園内・三段峡協会発行」の三段峡の絵葉書がヒットするため、三段峡協会に置かれていたものと思われる。
  7. ^ 『樽床誌』では最伝寺となっているが、柴木に現存する寺は西善寺であるため、誤字と思われる。
  8. ^ 院居は屋号であり[12]、後藤吾妻の家のことである[9]。旅館としての名称は峡北館であった[11]
  9. ^ 『中国新聞』1955年8月12日の記事では「光善寺」となっているが誤字である。
  10. ^ 光禅寺は1965年に火災により本堂を焼失している(光禅寺の説明版より)。
  11. ^ 続報はないが、新型コロナウイルスの流行により中止されたとみられる。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e 中国新聞 2011年5月31日朝刊 p.28 「広島大仏 奈良にあった 原爆ドーム近くから移設 半世紀不明」
  2. ^ a b c d e 『山県郡写真帳 : 〔山県郡小誌〕』 編:広島県自治協会山県郡支会 1926年発行 P.27
  3. ^ a b c d e f g h i j 『山県郡巡り道中記』 著:名田富太郎 1931年発行 1974年再版 p.511
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m 中国新聞 1949年9月30日朝刊 p.2 「爆心地供養塔に"廣島大佛" 一丈三寸總金ぱく 佛師安阿彌畢生の作」
  5. ^ a b c d 中国新聞 1950年8月3日朝刊 p.4 「『廣島大佛』お引越し あす花車で爆心地供養殿へ」
  6. ^ a b c d e 中国新聞 1950年8月5日朝刊 p.2 「稚児に引かれて 廣島大佛 爆心地に鎮座」
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 中国新聞 1955年8月12日朝刊 p7 「宙に浮いた大仏さんの行方 所有権めぐって争い 原爆ドーム横 西蓮寺から持ち去る」
  8. ^ 奈良県 極楽寺の歴史と寺宝” (日本語). 極楽寺. 2013年9月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月25日閲覧。
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z サンデー毎日 昭和34年39号(1955年8月28日号) p72 - 73 「雲がくれの”原爆大仏” 所有権でヤッサモッサの大騒ぎ」
  10. ^ a b c d e f g 中国新聞 2022年7月2日朝刊 p.23 「広島大仏 60年ぶり帰郷 原爆ドーム隣の寺に安置→奈良へ」
  11. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 『樽床誌』 編:鈴政信市 1970年発行 p.140 - 142
  12. ^ a b c 『八幡村史』 編:芸北町 1976年発行 p.397
  13. ^ 『樽床誌』 編:鈴政信市 1970年発行 p.373、p.442
  14. ^ ひろしま本通物語 著:川井樹 p.143
  15. ^ 中国新聞 2012年1月4日朝刊 p.24 「ヒロシマの一歩鮮明 50年作製『復興絵はがき』ビル街や新道路」
  16. ^ 中国新聞 2012年6月29日朝刊 p.31 「秘蔵の仏像画 8月6日開帳」
  17. ^ 中国新聞 2015年10月22日朝刊 p.31 「広島大仏『里帰り』企画 3年以内を目指す」
  18. ^ 中国新聞 2020年3月30日朝刊 p.19 「広島大仏60年ぶり里帰り 戦後は原爆ドーム近く・・・現在奈良の極楽寺」
  19. ^ a b 中国新聞 2022年4月8日朝刊 p.21 「『広島大仏』里帰りを 原爆犠牲者慰霊 奈良に安置中 実行委 CFで資金を募る」
  20. ^ a b “大仏さまは帰ってきた、荒れ地からよみがえった広島へ 67年ぶりに” (日本語). 朝日新聞. オリジナルの2022年8月5日時点におけるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20220804174942/https://www.asahi.com/articles/ASQ715WP4Q71PITB006.html 2022年8月5日閲覧。 

外部リンク[編集]